2016年8月5日金曜日

軍隊教育の中の『万葉集』

近代日本における『万葉集』の受容を考える際に、重要な手がかりとなるのが、国語教科書である。近代的な教育制度によって、多くの「日本国民」が、『万葉集』を学ぶことになった。国語教科書における『万葉集』への関心は、現在高まりつつあり、少しずつ貴重な研究報告も発表され始めている。

しかし、近代日本の教育を考える上で、忘れてならないのは、軍隊教育における『万葉集』である。

日本陸軍・海軍は、文部省管轄下の初等・中等教育における以上に、早くより国語教育に力を注いでいた。日本の軍人としてのアイデンティティの確立、軍人としての教養の習得と精神修養、さらには命令書の読み書き能力の獲得のために、国語教育は重要であった。

その国語教育において重視されたのが、『万葉集』『古事記』『古今和歌集』『平家物語』『神皇正統記』『太平記』『葉隠』などの古典である。とりわけ、将校養成のためのエリート教育を行った陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校、海軍兵学校では、大規模な古典教育が行われた。

私は、最初に靖國偕行文庫所蔵の蔵書目録を検索して、仙台幼年学校の学習資料「万葉集抄」の存在を知った。これをきっかけに、日本陸軍の国語教科書の収集や防衛省防衛研究所史料閲覧室や靖國偕行文庫で調査を進めたところ、それらに収められた『万葉集』が、私たちがイメージしがちな“軍隊教育の『万葉集』”とは、およそ違ったものであることに気づかされた。

日本陸軍では、教科書を「教程」という。陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校の国語教科書も、最初期には「国文教程」、次いで「国語教程」、そして太平洋戦争下の1942年(昭和17)以後は「国漢文教程」という名称になっている。

『万葉集』の歌は、陸軍幼年学校の開校(1897年〈明治30〉)の翌々年(1898年)改訂の『国文教程』(陸軍中央幼年学校〈後の、陸軍予科士官学校に当たる〉用)に採られている。

・「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みせじ」を含む、大伴家持の長歌(巻184049)の後半部
・防人の今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つ我は」(巻204373
の他、「名」を重んずる山上憶良の歌(巻6978)、大伴家持の歌(巻194165)の4首である。これらは日中戦争・太平洋戦争下で、「日本国民」の間で普及することになるが、陸軍ではいち早くこれらを教育に取り入れていたのである。

しかし、この4首が常に重視されていたわけではない。大正期の『国語教程』では、教材の理解を深めるための練習問題に引かれる、補助教材の位置に後退する。1928年(昭和3)の大規模な改訂によって、4首は復活する。

昭和期に『国語教程』『国漢文教程』に採られた『万葉集』は、確かに、「海行かば…」や「今日よりは…」の歌のように天皇に対して忠誠を誓う歌や、憶良や家持の歌のように「名」を重んずる歌を中核としている。

しかし、それだけではなく、1933年(昭和8)改訂の『国語教程』(陸軍士官学校予科(後の、陸軍予科士官学校に当たる〉用)では、島木赤彦『万葉集の鑑賞及び其批評』の一部を採録し、アララギ派が秀歌とした自然の歌を挙げている。

さらに、1942年(昭和17)改訂の『国漢文教程 甲』(陸軍予科士官学校用)では、口絵に西本願寺本万葉集の巻1本文の冒頭の図版(二色刷)を挙げる。採録した歌も、驚くことに121首にも及ぶ。相聞歌を除く、『万葉集』全体が俯瞰できるようになっている。中でも、旅の歌や、自分が仕える主人との死別や、父母・友とも生別に関わる哀切な歌が、多く選ばれていることが、注目される。

朝日照る 佐太(さた)の岡べに 群れゐつつ 我が哭(な)く涙 やむ時もなし
                    (巻2177)日並皇子尊の宮の舎人(とねり)
大和へと 君が立つ日の 近づけば 野に立つ鹿も 響(とよ)みてぞ鳴く
                              (巻4569)麻田陽春

『国語教程』『国漢文教程』を編集した陸軍教官の多くは、帝国大学・高等師範などで、近代的な「文学」や「文学研究」の洗礼を受けた人々であった。彼らは、熱狂的な軍国教育ではなく、あくまでも軍人教育という枠の中ではあるが、『万葉集』を通じて、豊かな情操を育むことをめざしていたのであろう。

しかし、天皇への忠節、軍人としての「名」を尊ぶ心、国土愛を中心に据える『国語教程』『国漢文教程』全体のテキストの中では、『万葉集』の“豊かな「情」の世界”も、たちまち主君への「忠」、親への「孝」、朋友への「信」といった〈道徳〉に読み換えられてしまう。

近代日本の『万葉集』受容史においては、江戸時代に始まる、『万葉集』の歌を〈道徳〉として読む、という読み方が、伏流のように流れていた。この流れは、戦争へと確実に向かい始める1935年(昭和10)頃より、表面に現われ、『万葉集』を「文学」として読む、という読み方を、追いやってゆくことになる。

良心的に「文学」によって、豊かな情操を育もうとすればするほど、それが強固な〈道徳〉教育となってしまうという、軍隊教育における『万葉集』のあり方は、こうした近代日本の『万葉集』受容の問題を凝縮したものと言える。

*この記事の基となっているのは、私の論文「陸軍教育における『萬葉集』―陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校の「国語教程」と学習資料から〈戦争と萬葉集〉―」(『緑岡詞林』第40号、20163)です。リンクを貼ったPDFファイルをご参照ください。

*なお、この論文の「資料5 「国語教程」の所蔵状況」に挙げたものの他、昭和館、Library of Congress(アメリカ議会図書館)でも、日本陸軍の国語教科書を所蔵しています。
○昭和館=
昭和3年印刷『国語教程 陸軍予科士官学校用 巻一』
昭和4年印刷『国語教程 陸軍予科士官学校用 巻二』
○Library of Congress=(昭和18、19年印刷の『国漢文教程』の漢文篇、参考書などは省略)
明治35年改訂『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻一』
明治35年改訂・再版『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻一』
明治35年改訂『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治35年改訂・再版『国語教程 陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治39年『国語教程 陸軍中央幼年学校予科及陸軍地方幼年学校用 巻二』
明治45年『国語教程 陸軍中央幼年学校予科及陸軍地方幼年学校用 巻三』
昭和18年『国漢文教程 甲 現代文篇 陸軍予科士官学校用』
昭和18年『国漢文教程 甲 古文篇 陸軍予科士官学校用』

*今後、海軍士官学校の『国語教科書』についても、分析を試みます。

*軍隊における国語教育については、時代・分野を超えた日本文学研究者・国語教育研究者・中国文学研究者の協力による研究が必要です。そのために、別の機会に、日本陸軍の『国文教程』『国語教程』『国漢文教程』の目次一覧を公開する予定です。

*日本陸軍の国語教科書の閲覧の機会を賜った、防衛省防衛研究所史料閲覧室、靖國偕行文庫に御礼申し上げます。

※PDFファイルの左上が読みにくくなっているところがあります。申し訳ございません。
7頁上段終わりから3行分  月一日の日清戦争…
             陸軍大臣御用掛…
             の第二軍に随行し、…
9頁上段終わりから2行目  の忠誠心の高まりを受け、…
15頁上段終わりから2行目  全体が一応俯瞰できるように…
17頁上段終わりから4行分  いたかもしれないが、…
             佐藤氏は何らかの…
             広く深く触れるための、…
              学習資料「萬葉集抄」には…
19頁上段終わりから4行分  する、「国語教程」や…
             「情」の世界〟もたちまち…
             読み換えられてしまう性質を…
             の『萬葉集』を生徒たちが…
21頁上段終わりから3行分  (三五頁)とある。…
             節も暗唱されたのであろう。…
             などに「萬葉集」という書名だけ…
27頁「資料3」の説明   ※昭和十七年印刷…
             ※①②③は、本文第四節…
             れていないことを…

2016年4月30日土曜日

『アシャの日記』―戦争下のかけがえない記録


2016年6月4日(土)・5日(日)に、青山学院大学にて、全国大学国語国文学会60周年記念大会が開催される。総合テーマは「日本とインド―文明における普遍と固有―」。4日には、スバス・ボース氏(ハーバード大学)の講演、「日本とインドを結ぶ―交流の過去・現在・未来―」をテーマとする、藏中しのぶ氏(大東文化大学)・近藤光博氏(日本女子大学)・田辺明生氏(東京大学)のパネルディスカッションがある。

この大会の準備を進める中、書店で笠井亮平氏の『インド独立の志士「朝子」』(白水社、2016)が目に留まった。日本で生まれ育ったインドの女性、アシャ・バーラティ・チョードリー(1928~)の評伝である。

アシャの父は、アーナンド・モーハン・サハーイ。日本で独立運動を進めていたサハーイは、やがて独立運動の中心的存在であったスバス・チャンドラ・ボースを支えてゆくことになった。1945年、アシャは、ボースが最高司令官である「インド国民軍」の婦人部隊に入隊し、独立運動に加わった。しかし、活躍する時を得ぬまま、大日本帝国の敗戦と「インド国民軍」の解散を迎えるのである。

現在もインドで暮らすアシャを始め、関係者への丁寧なインタビューに基づく笠井氏の労作は、スバス・チャンドラ・ボースらが進めたインド独立運動の進展と挫折を、生々しく、しかも骨太に描いている。そして、この独立運動に深く関わった日本の歴史を重く受け止めさせずにはおかない。

笠井氏の評伝の根本史料となっているのは、アシャ自身が執筆した『アシャの日記』である。評伝には、『アシャの日記』から、アシャが短歌を作ることや、台湾での特攻隊員たちとの出会いなど、非常に興味深い記事が引用されている。その全体をどうしても知りたいと思った。

『アシャの日記』の日本語版は、アシャが日本女子高等学院(昭和女子大学の前身)附属の昭和高等女学校で学んだ縁で、2010年に学校法人昭和女子大学から刊行された。しかし、この本は非売品である。笠井氏はデリー在住の人から入手したというが、私は昭和女子大学で非常勤講師を務めている縁を頼り、日本文学科の助手に調べていただき、昭和女子大学光葉同窓会のご厚意で、その1冊にたどり着くことができた。 

口絵8頁、本文200頁からなり、1943年6月14日(満15歳)1946年7月(満18歳)までの日記を収めた『アシャの日記』は、戦争の時代に、日本とインドに生きるという稀有の境遇を生き抜いた若い女性の、かけがえない記録であった(なお、『アシャの日記』は、「あとがき」の後に添えられた発行者のことばによれば、翻訳ではなく、アシャ自身が日本語で書いたものを、アシャが後に原稿用紙にまとめたものである)。

『アシャの日記』には、母国のイギリスからのインド独立を願い、それに貢献したいという純粋すぎるほど純粋な思い、独立運動を主導する「ネタージ(尊敬する指導者)」スバス・チャンドラ・ボースへの尊敬の気持ちを中心にしながら、家族を思い揺れる心や、戦争を憎む心が、抑制された筆致で表現されている。そして、一つ一つの場面がくっきりとした輪郭で描かれ、読む者に強い臨場感を感じさせる。日本の詩歌や小説を好んでいたというアシャの文章力は確かなものである。

インド国民軍の婦人部隊に加わるために、タイのバンコクに向かい途中で立ち寄った台北の旅館「千代の家」で特別攻撃隊「誠隊」(陸軍第八飛行師団)の隊員たちに出会い、その出撃を見送る場面は、感傷的ではない。むしろ、深い共感をもって、彼等の人間としての姿と、自分自身の悲しみをじっと見つめている。

*登場するのは、以下の人々。
桑原大尉[91頁〈4月27日〉]:桑原孝夫少尉(1945年4月28日に誠第三十四飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
草場道夫少尉[同上。アシャに漢文を書いた手ぬぐいを送る]:(『アシャの日記』に書かれているよりも後の1945年6月6日に誠第三十三飛行隊として「疾風」で出撃・戦死)
長井少尉[96頁〈4月29日〉。「アシャさん、僕等のために祈ってくださいね」と言った]:(不明)
猪俣少尉[97頁〈4月30日〉。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは猪俣寛少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
大野少尉[同上。特攻隊の護衛]:(不明。あるいは大野好治少尉〈飛行第二十戦隊〉か)
遠藤少尉[102頁〈5月3日〉]:(不明)
木村准尉[107頁〈5月5日〉]:(不明。なお、5月5日は特攻隊の出撃は記録されていない

アシャは、戦前の日本の教育によって培われた「愛国心」を、インド独立を願う心の原動力としている。アシャの短歌には、生まれ育った神戸の自然を愛おしみ、残してゆく弟をいたわるなど、切実なものがある。その一方で、戦争下の類型的な愛国短歌のような作品も作っている。アシャは「勝ってくるぞといさましく」を口ずさむ少女でもあった。

戦前の愛国教育が、日本の青少年だけでなく、インド独立を願う若い人々にも与えた影響について、肯定的あるいは否定的に評価することは脇に置いて、今、歴史の中できちんと捉え直すことが必要であると思われる。


戦争下の日本とインドの関係を考えさせる、貴重なこの本が、多くの人に読まれることを、心から願ってやまない。なお、「アシャ」という名前は、「希望」という意味である。